第28回 「叱る」ということ

先日、あるお客様とお話をしていて、「最近の若いマネジャーは、なかなか部下を叱れない」という話を聞きました。

叱ると本当にやめてしまう人が多いのだそうです。

自分が持っている組織・チームの離職率の高低は、マネジメント能力として測られるので、マネジャーが委縮して叱れなくなってしまっていると。

そのために、若手社員が何かをきっかけに一気に成長する、といった現象が、以前より少なくなってきているように思うとおっしゃっていました。

その方自身は、先輩からさんざん叱られながら、着実に仕事を覚えていったという成功体験があるだけに、歯がゆさを感じているようでした。

皆さんの職場ではいかがでしょうか?

最近読んだ本の中で興味深い話があったので、それをご紹介させていただきながら、「叱る」という行為について考えてみたいと思います。

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冒険家の故植村直巳さんの話です。(若い方にとっては「歴史の世界」の方かもしれません。。。)

植村さんは、世界で初めて、犬ゾリ単独行で北極点到達した世界的冒険家です。

(1984年、世界で初めてマッキンリー厳冬期単独登頂に成功した後消息を絶たれたきり、今だにご遺体は発見されていません。)

その植村さんが、犬ぞりの訓練方法について語った話です。

「あれだけの犬ゾリの犬を使いこなすのは、相当訓練しているのですか?」との問いに黙って首を振り、

「簡単です」と答えられたそうです。

なぜ簡単なのか。

それは、犬ゾリのチームをまとめるには、ボス犬を叩けばよいから。

十数頭の犬を、一頭一頭手なずけようとしても、最終的にはまとまらないが、リーダー犬を上手に使うことで、犬ゾリ全体に芯が通るのだそうです。

ただし、ボス犬を叱るのは、大切なとき、ここぞというときだけ。

普段は、別に叱られ役を作って、その犬を叱ります。そうすると、犬ゾリ全体に安心感が出て、いい雰囲気になってまとまっていくというのです。

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この話は、『仰木監督の人を活かす「技と心」』(永谷脩・著/二見書房)という本の一節から引用させていただきました。

仰木彬監督(故人)は、近鉄・オリックスという2つのプロ野球の監督を務め、チームを日本一に導いた実績もある人物。 

仰木監督を知らない方でも、野球の野茂投手、イチロー選手の育ての親、と言えばピンとくるのではないでしょうか?。

その型にはまらない選手の発掘、起用、チーム采配は、「仰木マジック」と言われていました。

上記の植村氏の話は、仰木監督がどのように選手を「叱っていたか」について分析しているときに出てきた話です。

監督も、全員を平等に、同じような力で叱ることなく、時と人物を選んで「叱る」という行為をマネジメントに活かしていた、という話のあとに、紹介されていました。

仰木監督も、普段の叱られ役と、最終的なカミナリを落とされる役を、選手の性格、それぞれの選手のチームの中の役割を考えて選び、チームに芯を作っていったといいます。

ただ、「叱る」という行為は言うほど簡単なことではありません。

ではなぜ、仰木監督にはできたのか。

もちろん、現役選手時代の実績、監督という絶対的な立場、相手が選ばれたプロだけであることといった、恵まれた条件があったことは間違いないでしょう。

しかし、叱られた側が納得いかなければ、どんなに立場的に「叱る」という行為のハードルが低かったとしても、その目的、チームをまとめて成績を残す、は達成できなかったと思います。

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野球では、ヒットの数が選手の評価を決めるひとつの大きな指標になります。

さて、ある選手は、クリーンヒットを打ちました。もう一人の選手はフォームが崩れて止めたバットにボールが当たったため、「ポテンヒット」になりました。

これをどう評価するのか。

「ポテンヒット」は、あくまでラッキーな結果であって、クリーンヒットと同等に評価するのはおかしい、と考えるでしょうか?

仰木監督はこうおっしゃったそうです。

「投手というものは、相手の形をいかに崩すかということを考えて投げているものなのですよ。形を崩しにかかっていて、それを完璧に捕えようが、あまり関係がないでしょう。むしろ形を崩されながらも結果を出したほうを評価していいのではないでしょうか?」 

仰木監督に下でヘッドコーチ(No.2)を務めていた中西太ヘッドコーチは、「定石」ではないプロセスをとったとしても、ともかく結果を出したときは誉めることにしていた、といいます。

選手に対する判断基準を単なる結果だけに置かない。

その結果が出る背景や心意気を探ってくれているという認識が、選手に納得感を与え、次も頑張って結果を出そうという気持ちにさせる。

そうした納得感、信頼感があるからこそ、叱られ役に「選ばれてしまった」選手や、彼らが叱られているのを見ている選手も、それを受け止めることができるのではないか、と思うのですが。

いかがでしょうか?

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また、仰木監督は、オリックスに就任早々。前監督が中途半端にきめてい各種のルールを撤廃したと言います。

門限もなし。朝食を摂るも摂らないも本人の自由。基本的にすべて選手の自主性に任せたそうです。

ただし、朝、球場に向かうバスの時間に遅れたら大問題。これはチームへ影響を及ぼす問題だからです。

もちろん、自己管理ができずに野球で結果が出せなければ自己責任となるわけで、実は選手にとっては非常に厳しい状況です。

そこには、自立した真のプロ選手を育てるという意図があったことは確かでしょう。

ただ、仰木監督を取材した著者は、

「仰木マジック」を生みだせたのは、王道だけを歩んできたわけではなく様々な失敗や悔しさがあっただからということを監督自身が自覚していた、

ということもまた、選手の自主性を重視する背景にあったのではないかと観察します。

「そういった意味で選手には何も言わない。何をしてもかまわないというのは、失敗しても、それでも大きくなってこいという姿勢ではないだろうか」と言います。

「失敗させまいとするよりも、失敗を上手に活かして次に使えるように考えた方がいいと考えている」というわけです。

失敗という事実だけで判断をするのではなく、その失敗を活かすことで、世界を広げる、次のステップに進むことを期待する。

こうした文化があってこそ、「叱る」という行為もまた、ポジティブなものとして受け入れられるのではないか、と思うのですが。

いかがでしょうか?

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相手を慮って注意するのが「叱る」。自分の感情にまかせてしまうのが「怒る」。だから、「叱る」は相手への愛がベースにある、といった説明を聞くことがあります。

確かにそうだ、と思います。

しかし、それが個人の意識のレベルで終わっていては、結局叱る勇気と実力がある人だけが叱ることができるという、属人的な世界に落ち着いてしまう気がします。

そしてその人がいなくなったら終わり。

組織の中の仕組みや文化がベースにあって、初めて、普通の人であっても効果的に「叱る」ことができるのではないかと思うのですが。。。

叱られることは特別ではない。叱られた(失敗した)あとの成長を認めてもらえる文化がある。

「ほめて育てる」が定石になりつつある感のある昨今。

実際に叱られることで成長できた実体験を持った者としては、叱る行為がポジティブに働く組織とは? と改めて考えてみたいと思った次第です。

皆さんはどのように考えられるでしょうか。

今回参考にさせていただいた書籍

『仰木監督の人を活かす「技と心」』(永谷脩・著/二見書房)

(2008年9月5日)

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