- 戦略的人事にITを活かす - 人材・組織システム研究室
杉並区和田中学校の元校長である藤原和博氏が、興味深い話をされていました。
日本をダメにしているのは、「正解主義」である、と。
「日本の教育界は常に正解を求める正解主義でやってきました。この中で10年、20年と育てられた子供がどうなるか、というと、常に物事には正解がある、と思ってしまうよね。」
「だから、変な自分探しをするんですよ。自分にとって、絶対、正解の会社がある、自分にぴったりな仕事がある、とかね。でも、そんなものはあるわけがない。」
そして、今後は、「正解主義」から「修正主義」に移行していくことが望まれると言います。
「修正主義」とは、とりあえずやってみて、無限に修正していく、という考え方です。
「正解主義」がはびこっている企業では、「正解」がでるまで半年かけて100回でも会議して、正解を求めようとしてしまう。結論が出る頃にはすでに時代が変化してしまって、会議自体の意味がなくなってしまった、という事態に陥ります。
一方「修正主義」的に考えれば、とりあえずやり始めて、そこから100回修正する。そして、結局はこのやり方が納得感の高い結論に到達できるというのです。
確かに、と思いました。確かに、私も気がつかないうちに、「正解主義」に陥っていることに気がついたことがあります。
10数年前、社会人大学院のひとつに入学したときのことを思い出しました。分野は社会科学。私にとっては8年ぶりの「勉強」でした。
入学してすぐ、授業の課題として小論文を提出したときのこと。私は与えられた題に対して、「正解」を探していました。そのため、一般的に「王道」と言われている本を読んで、そこでの考え方をまとめたのです。
提出後、教授から言われたのは、「これは問いの前提となる知識や先行研究がまとめられているだけですね。そこから何が考えられるのか、あなたはどう見るのか、そこが大事なところです。」
目から鱗でした。「あ、自分で考えていいんだ・・」
そこから、勉強するのが楽しくなって、大学生のときにほとんど勉強しなかった自分を心からもったいなかったと悔やむことになるのですが。。。
藤原氏は、「修正主義」に必要となるのは、「情報処理能力」から「情報編集能力」への力点の移動だと言います。
「情報処理能力」とは、
「頭の中に正解をたくさん詰め込んでおいて、正解を問われたらパッと出せる能力。「1+2」と言われたら「3」と答えられる能力。コロンブスがアメリカ大陸を発見した年と言われて「1492年」と答えられる能力。こういう暗記力を含めた正解を早く正確に言える力」。
一方、「情報編集能力」とは、
「わかりやすく言えば、今日の夕食を作る際、冷蔵庫のあるものを組み合わせてカレーを作るのか、チャーハンを作るのか、そう言う意味での情報編集力。限られた資源の中、自分の知識や技術、経験を組み合わせて最適解を見つけていく能力」とのこと。
日本の教育は、また企業の研修でも、「情報処理能力」に大きな比重を置いてきたけれど、今後、「情報編集能力」を育てていくことを意識的に促進しなければならない、ということでした。
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さて、この話を読んだときに、ふっと頭に浮かんだのが、以前「日経ビジネス」の「有訓無訓」で、歌舞伎俳優の中村吉右衛門さんが語られていたことでした。
歌舞伎の世界で初舞台を踏む時には、教えられた通りに演じきらなくてはならないのだそうです。自分自身の解釈など一切入れることが許されない。
それが完璧にできて初めて、自分なりの演技を考えることを許されます。言葉にすれば、「守・破・離」の「守」が厳密に守られている、ということになるのだと思います。
何故、この話が浮かんだのか。
藤原氏の指摘に対する反応として、「型にはめるのがよくないのだ」と解釈して、「型」や「守」の部分を軽視してしまう、ということが起きてしまうのではないか、と思ったからです。
ともかく「自由」に考えさせるのがいいことなのだ、と。
昔、海外の英語学校に1カ月ほど通ったことがあります。そこには、アジア各国から若者が集まっていました。
その中に、積極的に英語で話をし、どんどん質問をする男の子がいました。当時、英語を話す環境にいなかった私は、「すごいなあ」と思って見ていました。
しかし、いわゆる穴埋め問題の答え合わせをしているとき、彼が怪訝そうに首を傾げています。そして、「どうして、can do の過去形は、can did ではいけないのか?」と質問をしたのです。
その後の流れについては一切覚えていないのですが、その場面だけは10年以上たった今でも鮮明に覚えています。
英語教科書が「This is a pen」から始まっていた世代であり、徹底的に英語文法を勉強させられて正直英語好きではなかった私でしたが、その後、一旦コツをつかみ、英語でコミュニケーションを取る楽しさを実感すると、くだんの彼よりも、より複雑なことをより正確に伝えられるようになっていきました。
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「正解主義」からの脱却、大賛成です。その弊害は藤原氏が指摘するように、とても大きいと感じています。
ただその脱出を図るなかで、「型」とか「守」といったものを軽視するとしたら、逆にもっともっと「正解主義」を助長するという結果に陥ってしまうのではないか、と感じたのです。
問題は、何が必要な「守」であり「型」であるのか、同時に、そうした「守」や「型」とどう付き合っていくのか、ということであり、それらをどれだけきちっと考えられるか、であって、「型」や「守」の存在をないがしろにすることは危険だろうと思います。
私の好きな本で、『生命と無生物のあいだ』という本があります。生物学について書かれた本として異例のベストセラーになりましたから、ご存じの方も多いかと思います。
その中で、非常に印象的で、私たちが生活をし、ビジネスをしていくにあたって教えられると思ったのは、「人間の体というのは、分子のレベルでは、半年から一年ですべて入れ替わっている」、ということでした。
それを「動的平衡」(ダイナミック・イクイリブリアム)と呼ぶのだそうです。「秩序は守られるために破壊されなくてはならない」ということです。
誤った方向の解釈なのかもしれませんが、「型」や「守」といったものも、実はこの「動的均衡」の上にこそ成り立つものなのではないかな、とこの文章を書きながら思いました。
いわゆる「型にはめたから、自由な発想が阻害された」といった結果が出ているとしたら、それは、「型」が「動的」なダイナミズムを失った「死骸」として扱われているからであって、それ自体の問題ではない。
ビジネスの世界では、多様化社会の中でイノベーションを起こすことが重要だ、と言われます。だから「自由」で「ユニーク」な発想が必要だと。
そして、実は、そこに至るために必要な「型」を吟味し、伝承していくなかで、それを動的に応用・活用していける環境や文化を提供し続けることが、長期的にみた成功のためのポイントの一つになるのではないか・・・・。
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今回は、かなり直感的な話に終始してしまいました。自分の中でもはっきりとした答えが出ていない感覚が大いに残っていますが、とりあえず共有させていただきました。
ともあれ、何か皆さんのインスピレーションの足しになれば、幸いです。