第88回 左右に異なる目盛を持つモノサシ
確か小学校1年生か2年生の時だったと思います。
幾つかの図形が書かれたプリント(当時はガリ版で印刷したもの)を手渡され、それぞれの辺の長さを
測りなさい、という宿題が出ました。細かいことは覚えていないのですが、家に帰って祖母が持っていた
木製の定規を借り、紙の上の線を測り、数字を書き入れていったのを覚えています。
次の日、クラスで答え合わせをしていくと・・・私の書いた数字はことごとく「間違い」。
ひとつとして丸をもらうことができませんでした。
家に帰って気がついたのですが、祖母の定規には左右に異なる目盛りが付けられていました。
メートル換算をベースにしたものと、鯨尺をベースにしたものです。祖母は着物の仕立てをする人でした
から、鯨尺が必要だったのかもしれません。そして私は、「メートル」の方ではなく、「鯨尺」の方を使って
宿題をしていたのでした。それでは「正解」が出せるわけがありません。
数十年以上も思い出したことがなかったのですが、最近ふと、記憶の底から浮かび上がってきました。
そのとき、単に苦い思い出なのではなく、実は非常に示唆に富む経験だったと気がつきました。
そもそも、今自分がどのような「モノサシ」で物を見、判断しているのかを、きちっと理解しているのか。
そして、それは本当に他の人と同じなのか。他の人は自分と同じものを見ているけれど、まったく異なる
「モノサシ」を使っているので、実はまったく違った姿を見ているのではないか。
また、自分の「モノサシ」で測ったものと、他人が測った答えが異なっていたからといって、常に100%
自分の答えだけが正解/不正解とは限らないだろう。
(例えば、私の全滅した宿題も、鯨尺の世界では正解でしたので・・・。学校の宿題としては不正解に対
するただの言い訳になりますが。)
日本の浮世絵が、日本の工芸品の包装紙として無造作に使われていたところ、ヨーロッパの芸術家たち
がそれらの価値を発見し、ゴッホやゴーギャンをはじめとする印象派の画家たちに大きな影響を与えた
というのは有名な話です。
「答え全滅」という衝撃的な宿題の記憶が頭に浮かんできたとき、そんなことを考えました。
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4月1日の入社式、震災についてはもちろんですが、やはりグローバル化についてのメッセージも多かっ
たと聞きます。では、グローバル化に直面する者としてどんなモノサシを持っているべきなのか・・・。
フランスに駐在していた日本人が、月の綺麗な夜に、フランス人の同僚たちに安倍仲麻呂の歌を披露
したそうです。
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
そして、「これは1200年以上前、中国に渡って二度と日本に帰ることができなかった留学生の詩だ」と
説明しました。それに対して、「トレビアン!フランスにはそんな昔の詩について語れる人がいない」と驚
かれたそうです。そしてこのことは、流暢に外国語を話すことよりも、意見を尊重してもらえるベースと
なったといいます。
この話を聞いたとき、決して「グローバル用」という一本のモノサシがあるわけではない、と思いました。
大事なのは、自分モノサシの目盛りをしっかり持ち、その意味を理解すること。そして他人(他文化)
にも同様に、その人(文化)なりのモノサシがあることを認識し、尊重すること。相手のモノサシのことも
わからず、ましてや自分のものもわからず、魔法の杖のような「グローバル・モノサシ」を探し求めても、
どこにも辿りつけないのだろうと。
少し抽象的な話になってしまいましたが・・・皆さんはどうお考えになりますか?
ともあれ、祖母が亡くなってから20数年が経ちますが、今度実家に戻ったときには、こんなことを考える
機会をくれたことにお礼をいいたいと思います。
参考にさせていただいた資料
『奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち(2011年4月7日)