- 戦略的人事にITを活かす - 人材・組織システム研究室
オーストラリアで暮らす、21歳の女性の話です。
本題に入る前に、まずオーストラリアの大学進学の話をさせてください。
オーストラリアの大学入試は、大学毎には実施しません。
オーストラリアの高校生たちは、通常、グレード11(日本の高校2年生相当)に進級するとき、大学に進学するか、卒業して就職するかを選択します。大学進学組は、グレード12(最後の1年間)の学習結果及び州毎に実施される共通試験によって、大学入学のための成績をつけられます。
一方、大学側は、入学予定者数と事前入学希望者の成績を合わせて、その年の合格ラインを決定。学生は、自分の成績が合格ラインを越えている大学学部に入学を申し込むことになります。
そうして大学に入学を許された学生には、全員、奨学金を受け取る権利が与えられます。大学卒業後、一定の収入を得始めたところで、返済義務が発生します。
ですから、両親が学費を払えない場合でも、自分の意思があれば大学に進学することができるのです。
また、奨学金を申請した学生は、最初の半年間に、そのまま学生を続けるか否かを決めることができます。この期間中に「続けない」と決めて退学すると、返済する義務は発生しません。
さて、21歳の女性の話に戻ります。
彼女は、高校時代、大学に進学するために真剣に勉強していました。試験もきっちりと受験し、順調に大学に入学。憧れていた大学生生活を始めました。
しかし3カ月ほどして、彼女は大学に通うことに違和感を覚え始めます。大学での勉強が全然楽しめない。従って、大学に行くのが苦痛になってきた。このまま3年間(大学の学位は最低3年で取れます。しかし大学院に進むためには+1年が必要。)ここに通い続けていいのだろうか、と悩みました。
そこで、親や友人に相談をしました。親は、せっかく入った大学なのだから続けてみたら、と勧めます。友人の意見はバラバラ。悩みぬいた末に、半年が経つ直前、大学に退学届を出しました。
その後彼女は、それまでアルバイトで働いていたレストランでの仕事に没頭するようになります。
毎日のように働いていた彼女は、すぐに、仕事の幅を広げてリーダー職になり、店長の補佐的な仕事まで引き受けるようになりました。
チェーン展開しているそのレストランの中で、彼女が所属していたのは、決して収益が高くないところでした。
しかし、彼女が在庫管理と人事管理の指揮を取るようになってから、その収益がグングンと上がっていきました。
その振れ幅に、ヘッドオフィスが注目し、彼女は異例の昇進を遂げて、歴代最年少の店長へ抜擢されることになりました。
そして、彼女と一緒に大学に入学した友人たちが、大学を終えて社会に出る年になりました。
彼女は、自分が人事の分野に興味があることがわかったので、通信教育で学校に戻ることを決意。店での仕事を少しだけ減らしてもらいながら、学位を取るための勉強を始めました。
人生に「もしも」はありませんが、彼女があのまま間悶々としながら大学生生活を続けていたら、どうなっていただろう、と考えてしまいました。
今、奨学金の返済もなく(逆に働いて貯めたお金があり)、会社に認められながら自分の興味のある勉強を始めた彼女を見ていると、3年前の退学の決断を良かったと思うとともに、それが許されている環境を羨ましく思いました。
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先日の日経新聞の朝刊の文化面に、「歯科の技 美術に“生える”」という記事が出ていました。
歯科医療に使われる専門的な工具や材料を利用して、絵画や彫刻を作成している緒方陽一氏の寄稿です。
緒方氏は、福岡で2代続く歯科医の一人っ子。自身も含めて、誰もが当然歯科医になって後を継ぐと思っていたといいます。それでも、もともと美術が大好きだった緒方氏は、歯科大学への受験勉強の合間にも絵を描き続けていました。
無事に歯科大学に入学。しかし美術への憧れは一向に衰えず、友人が通っていた美大の授業に入り浸るようになります。
そうしているうちに、やはり「芸術の道で生きていきたいという思いが募り、結局は、父親の大反対に遇いながらも歯科大を退学。芸術家の道を歩み始めました。
この話を途中まで読んだ時、正直「せっかくのキャリアがもったいないな」という思いと、「回り道をしてしまったのね」という感想を持ちました。
そうしたハンディをカバーするために、敢えて歯科医療の道具という、「異質なもの」にこだわっているのではないか、と。
しかし、緒方氏の選択は、そうした「頭で考えたマーケティング的」発想ではありませんでした。
純粋に、歯を削る回転工具に極細のペン先をつけて描く線は、どんなにシャープに削った鉛筆でもかなわない繊細が線が描ける。歯科用のプラスティックや金属は、非常に入り組んだ人間の歯の形状に対応できるようになっているので、複雑な立体曲線を造形するのにぴったりである、のだそうです。
また道具や技術だけではなく、歯科大学での「組織病理学」という科目で、人体細胞を顕微鏡で観察したときに感じた、秩序立った自然の美がその後の表現に影響を与えているとも。
緒方氏が記事の最後で、確かに一時期は美術大学に行きたい、美大生が羨ましいと思ったことがあるが、となしながらも、
「歯科医を目指したことは決して回り道ではなかった。僕が子供の頃から続けてきたテーマを表現するための最良の道だったんだ」 と言っていたのが印象的でした。
今年の五月には、シンガポールのギャラリーに招待されて、初の海外での展示会を行うそうです。
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高校を出たらすぐに大学、大学を出たらすぐに企業に就職。就職したら同期に遅れず昇格を。。そこから一回外れてしまうと、「遅れ」を挽回するのは大変だ・・・。
私自身も、大学受験、就職活動中はそう思っていました。そして、20年以上経った今も、残念ながらそれはあまり変わっていないのではないか、と感じます。
単純に海外の例を引いて、「だから日本はダメなんだ」という気もありません。また、「『自分らしさ』を見つけたら思い切って飛び出せ」といった無責任なことも言えません。(そもそも最近は「自分らしさ」という言葉に懐疑的でもあります。)
ただ、後で振り返ってみると、回り道と思っていたものが、実は最短距離だったり、最良の道だったということは、結構あるのではないかと思っています。
一般的に「一番の近道」と言われるものに惑わされないで、もう少し「回り道」の価値が認められる環境が増えていけばいい、と感じています。
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日本経済新聞社 2010年4月5日朝刊 文化面
「歯科の技 美術に“生える”」 緒方陽一
(2010年4月16日)