- 戦略的人事にITを活かす - 人材・組織システム研究室
京都市生まれ、京都市育ち(実家は数代続いた米穀商)。京都府立大学卒業後、大阪ガス(株)サービス推進チーム勤務を経て、1997年滋賀大学経済学部へ社会人入学。2001年4月、神戸大学大学院経営学研究科博士課程前期課程に入学し、金井壽宏研究室に所属。2006年3月、同上博士課程後期課程修了(博士(経営学)を取得)後、4月より神戸大学大学院経営学研究科助手、同年10月よりCOE研究員に。2008年4月、京都女子大学現代社会学部准教授に就任。 主な著書や論文:『京都花街の経営学』(東洋経済新報社、2007年)、『1からのサービス経営』(中央経済社、2010年、共著)「伝統産業のビジネスシステム‐350年続くサービス産業「京都花街」のダイナミズム」(『一橋ビジネスレビュー』第56巻1号、2008年)、「「ものづくり」視覚によるサービス現場の分析:花街と自動車工場の比較を通じて」(『組織科学』第42巻第4号、2009年)など
「花街」(はなまち/かがい)というのは、芸妓さんや舞妓さんが住んでいて、彼女たちと遊べる店がある街のことを指します。京都にはこのような「花街」が5つあって、「五花街」(ごかがい)と呼ばれています。そのうち4つの花街は徒歩20分以内、遠いところでも車で20分程度という狭い範囲にあります。それでも、それぞれが独自の特徴を維持して、上手に共存しています。
この「五花街」には、昭和の初め頃、芸妓さん・舞妓さんが1800人ほどいたと言われています。しかし、戦後から急激に減少をし、2010年時点では、芸妓さんが200人程度、舞妓さんが90人程度といった規模になっています。ただし、90年代半ばくらいから芸妓さんの人数は横ばい、舞妓さんの人数は30年ほど前から増傾向になっているのが特徴です。
この数字と傾向を、東京・大阪の花街と比較してみましょう。
昭和初期には、東京で7500人、大阪で5300人いたといわれる芸者さん(東京などではこの呼称が一般的)は、現在それぞれ3百人、20人程度に減少。しかもその傾向が上向く兆しは見えていません。それぞれの人口や経済規模を考えると、その存在感が著しく減退していると言わざるをえないでしょう。
こうして見ると、京都の「五花街」が業界として上手に生き残っているのがわかります。
では、なぜ、経済の中心でも政治の中心でもない京都の花街が生き残ることができたのか。経営・人事という側面からお話したいと思います。
花街では、長い間、お客様の好みや、その時々のニーズに応じたものを柔軟に揃えられるように、独立した専門家たちが共同してサービスを提供するという形がとられてきました。このやり方は、江戸時代くらいまでは全国の花街で共通だったようです。しかし、東京では、時が経つにつれて、料亭が、場所の提供から料理、芸妓(芸者)まで、すべてを自前で抱えるようになりました。大阪では、大規模な料亭が芸妓育成の学校を併設したりしました。けれども、その流れに京都は乗らなかった。実はこのことが、現在の明暗を分けていると考えています。
京都は、明治維新までは文化の中心でした。しかし維新で皇室が東京に移ってしまったため、経済・政治の中心でないだけでなく、文化の中心でもなくなってしまいました。つまり、放っておいてもお客さんが来てくれるという環境ではなくなったわけです。そこで改めて「分業化」による品質の維持ということを強烈に意識したのではないかと思っています。すべてを内製化してしまうと、質の競争がなくなってしまいますから。
現在、京都の花街の構造は、サービスの提供側という括りでみると、四つのグループに分けて考えることができます。「お茶屋さん」「置屋さん」「料理屋」「しつらえ提供業者」です。これらを、ビジネス的な言葉で説明すると、
「お茶屋さん」 → イベントコーディネート・プロデュース会社
「置屋さん」 → 育成機能をもった「人事部」アウトソーシング会社、タレント・プロダクション。
「料理屋」 → ケータリング会社
「しつらえ提供業者」 → インテリアコーディネイト会社
といったところでしょうか。それぞれは完全に独立して商売を営んでいます。その中で、プロデューサー・コーディネーターである「お茶屋さん」が、顧客のニーズや好みに合わせた組合せを考え、ひとつのお座敷をコーディネートしていくのです。
ちなみに、京都の花街というと、「一見さんお断り」が有名ですよね。このことが京都の花街は敷居が高い、というイメージにつながっているのではないでしょうか。しかし、サービス提供の構造を理解すると、これは非常に合理的な仕組みだということがわかります。
「お茶屋さん」が、お客様に満足していただくお座敷をプロデュースするためには、そのお客様のことをよく知っている必要があります。しかし、「一見さん」に対しては、どういうお座敷を用意したら良いかが、まったくわからない。相手のニーズがわからないままにいい加減なサービスを提供したら、自分たちの評判が下がってしまいます。そのリスクを回避するために、あらかじめ好みを把握できるお客様=一見ではないお客様、にサービスを限定しているわけです。
さて、「お茶屋さん」が繁盛するかどうかは、お客様が提供されたサービスにどれだけ満足したか、にかかってきます。ですから、「お茶屋さん」は、各専門家から提供されるサービスの品質にはとても敏感です。
「置屋さん」「料理屋」「しつらえ提供業者」は、常にそうした厳しいチェックの目に晒されていますから、自分たちの専門分野で質の高いサービスを常に提供し続けるために、努力を怠るこはできません。
「お茶屋さん」の要求に、「単なる安さ」という要素は入りません。要求されるのは、「いつものもんを、いつものように持ってきてほしい」ということです。ただこの「いつものもん」というのは、いつも同じように規格通りのものを持ってこい、ということではありません。季節に合わせて味を変えるなど工夫をして、「いつもお客さんが喜んでくれはるように」という意味なのです。それをきちっと考えて実行する、専門家としての高度な質を求めているのです。
ただし、一方的に「お茶屋さん」が強いというわけではありあません。逆に、あるお茶屋さんのお座敷のコディネートの質が下がっていると関連事業者が感じたら、皆、そこからくる仕事の依頼を、第一優先として自分たちの経営資源を振り向けなくなります。このように、いい意味での相互チェック、相互評価が機能し、花街全体のサービスの質が保たれていきます。それぞれの専門家が独立していることの価値はここにあると思っています。
では、こうした世界の中で、「置屋さん」=人事部機能がどのように機能しているのか、お話していきましょう。
まず、京都の花街の世界が、全体として相互評価の上に成り立っているということはご理解いただけたと思います。先ほど申し上げたように、相互チェック・相互評価というのは非常にシビアな世界。その中で新人を育成していくためにうまく役立っているのが、「舞妓さん」という仕組みなのです。
まずは、舞妓さんから芸妓さんになるまでのステップをご説明しましょう。
1. 仕込みさん
舞妓さんとしてデビューするまでの約1年間の修業期間のこと。舞妓さん候補は、中学卒業後、身のまわりの簡単な手荷物だけで置屋さんでの住み込み生活を始めます。この期間に舞妓さんとしての基本的な行動規範や伝統的な芸事のスキルを身につけます。服装は普段着、お化粧もしません。
2. 見習いさん
舞妓さんとしてデビューする日が決まると、研修をさせてくれる「見習い置屋」に毎日通い、お座敷を見学させてもらいます。その期間約1カ月。髪は地毛で日本髪を結い、着物は舞妓さんとほぼ同じものを着ますが、帯の長さなどで、はっきりと「見習いさん」であることがわかるようになっています。
3. 舞妓さん
見習い期間を終えると、正式に舞妓さんとしてデビューします。ここから約4,5年、OffJT(芸妓さん、舞妓さんのための学校があります)、OJTの組合せでスキルアップをしていきます。着物は振りそで、帯は「だらり」と呼ばれるもの、髪には花かんざしをつけ、履物は「おぼこ」。ただし、経験年数に合わせて、着物、かんざし、化粧などがだんだんと、大人びた雰囲気のものに変わっていきます。
4. 衿替えをして芸妓さんに
舞妓さんになってから4、5年目、20歳前後で芸妓さんになります。芸妓さんになるとかつらを使うようになり、花かんざしもさしません。また、着物も振袖から短い袂のものに、帯もお太鼓、履物も草履や下駄になり、大人としての美しさを表現する装束になります。
5. 自前さん芸妓さん
通算約5〜6年の年季期間があけると、「自前さん」と呼ばれる、言ってみればインディペンデントコントラクターの芸妓となります。置屋での住み込み生活を終え、自分で生計を立てていくのです。その後、立方と呼ばれる日本舞踊専門の芸妓になるのか、地方と言われる三味線や唄の専門の芸妓になるのかを選択することになります。もしくは、芸妓をしながら自分の店を兼業したり、置屋やお茶屋になっていく人もいます。いずれにしても、自分の得意分野を知って、キャリア選択をすることになります。
こうした舞妓−芸妓のステップアップがある中で、まず服装や身だしなみで、今彼女たちがどのような段階にいるのかが明確にわかるような仕組みになっているのです。例えば、下唇にしか紅を差していない舞妓さんの写真を見たことがありませんか?あれは、1年目の舞妓さん。誰にでもわかる「初心者マーク」が付いているのです。しかもそれは、15歳なら15歳なりの美しさやかわいさが引き立つように工夫されています。そこで、相互評価の時にも、その時点で求められるものに対してどうか、という評価がしてもらえるようになっているわけです。
<景気や個別の事情に左右されない教育システム>
京都の5つの花街すべてが、それぞれに芸舞妓の教育機関を持っています。5つのうち2つは学校法人です。
これらの学校は、組合費や、花街全体で行ったイベントの収益を使って運営されています。つまり、景気変動などの要素で教育費が削られないように、また、個別の事情で一部の芸舞妓が教育を受けられないということがないように、常に一定の財源を確保できる仕組みができているのです。人材の質を高く保つための仕組みですね。こうした仕組みは、明治時代の初期からあって、講義の内容は変化しながらも、今も綿々と続いています。
また、舞妓さんは置屋さんで暮らすことになっています。これは、まだまだ未熟な時代に、売り上げが上がらなければ明日のご飯に困る、といったひっ迫した状況に追い込まれることがないように考慮された仕組みです。若いときには、じっくりと稽古に励んで、いろいろなことを学ぶことができる環境を整えていると言えるでしょう。
<一生教育>
学校では、まず、日本舞踊を教えます。また、日本舞踊のリズムを体得させるために邦楽の楽器や唄も教えるようになったと聞いています。昔は普通の生活の中に邦楽のリズムがあったので、舞踊だけを教えても上達が早かったそうです。しかし、今は洋楽のリズムが溢れているため、感覚として邦楽リズムが身についていない。そこで、楽器や唄を一緒に教えるのだそうです。すると踊りの上達が早くなるとか。そうした時代の変化には敏感に対応しているのがわかりますね。
そして、立ち居振る舞いの基礎として茶道も学びます。
このように説明すると、学校は舞妓さんが基礎を学ぶところ、と思われてしまうかもしれませんが、花街で芸舞妓として仕事をする限り、全員がこの学校に通います。花街を去るまでずっと、です。芸の世界には終わりがなく、常に芸を磨く必要がある、という信念のあらわれでしょう。
<「見て覚える」の実践>
学校は、日本舞踊や邦楽、茶道などの具体的な技術を身につけるところではあるのですが、同時に一般的な作法なども自然に学ぶ場にもなっています。
新人の舞妓さんたちは、始業前に学校に行って、座布団を並べたり、お茶を用意したり、先輩が来る前にいろいろな準備をしておかなければなりません。その中で、日常のお作法を学んでいくのです。例えば、座布団の裏表の見分け方はご存知ですか?そういった些細だけれど、おもてなしに大切なことをひとつひとつ実践で学んでいくわけです。
また、稽古の順番は経験年数順。つまり、若い舞妓さんが稽古をつけてもらえるのは最後の方です。ですから、自分よりも技術が上の先輩の稽古を沢山見ることになる。これも、非常に勉強になるといいます。
確かに、席がブースで囲まれたりしていて、先輩たちがどうやって顧客と接したり、トラブルに対応しているのか「見る」環境が少なくなっていることに危機感を感じている企業もあるのではないでしょうか?これらの学校での、「習うより、慣れろ」「見て覚える」ことが自然にできるの実践は、参考になるかもしれませんね。
<お座敷の質にもダイレクトに貢献>
花街毎に学校があり、芸舞妓全員が通っているメリットは、「共通言語」ができることです。それぞれの花街で教える流派は異なります。しかし、逆にいえば、同じ花街に属する芸舞妓さんは、学校を通じてすべて同じ流派を学んでいるということになります。すると、最初に言ったように、お茶屋さんがお客さんに一番よいサービスを提供するために、複数の置屋さんから芸舞妓さんを呼んだとしても、皆同じ学校で学んでいますから、短時間で打ち合わせをして踊りなどの出し物を決定できるわけです。
また、そうした混合チームでお座敷を組んだとき、誰がリーダーになるかは非常に明確で、花街に入って一番経験の長い人が、どういう立場であってもそのお座敷でのリーダーになります。その下も、すべて経験年数で序列が決まる。ですから、もめることもなく、自分の役割が非常に明確にわかるようになっています。
また、そのグループに新人がいたとしたら、彼女の面倒を誰がみるかも明確にルールが決まっています。まずは、「名前を分けたお姉さん」。もしその立場の人がいなければ、同じ置屋の人。そうした人がいない場合には、見習いに行っていたお茶屋さんが同じ人。責任の所在が非常に明確になっているわけです。
京都の花街を調査してきて、東京や大阪の花街と一番違うと感じるのは、若い人を継続的に育てる仕組みが機能している点です。京都では、花街の将来を考えたら、質の高い若い人をボリュームゾーンとして持っておくことが重要で、それがなくなったら衰退するばかりだ、という、強烈な危機感を持っていると思います。ですから、そのためにはどうしたらいいかを、ものすごく考えているのです。
一方、東京などでは、長年に渡って、馴染みの芸達者な芸妓(芸者)さんを呼んで、塀で仕切られた料亭の中で楽しめばいい、という一定層のお金持ちが、潤沢にいたのだと思います。ですから、若い人を育てて確保するという、先行投資にはあまり関心が払われなかったのかもしれません。
しかし、バブルが崩壊して、そうした人たちが財布の紐を締めたら一気に打撃を受けてしまった。東京のほとんどの料亭は、すべてを自前で抱えるビジネスモデルを採用していましたから、設備投資の”つけ”が重くのし掛かってきたでしょう。また、若手の育成に力を入れてこなかったために、新しい顧客層を取り込むことにも苦労しているのだと思います。
それに対して、分業制を守り、若手育成を地道に続けてきた京都の花街では、2年前のリーマン・ショックによる打撃も、あまりなかったと聞いています。
もし、自分が置屋さんの経営者、言ってみれば、人事部株式会社兼プロダクションの社長だとしたら、学校で習ってきたことを復習させて、しっかり身につけさせようと思いますよね?
では、お茶屋さんのお母さんだったらどうか。自分のお座敷にきている舞妓さんがちゃんと仕事をしているかチェックしようと思いますよね。
そして、お客さん。継続的にいらっしゃる方が多いですから、ちゃんと芸を磨いているか、手を抜いていないか、すぐにわかります。
こうして、お座敷にかかわるすべてのプレーヤーが常に評価をする仕組みができているのです。
そうした評価は、お茶屋さんから声がかかる、お客さんが呼んでくれる、従って売り上げが上がる、という明快な結果として表れます。
実は、芸舞妓さんの「花代」は、同一労働同一賃金。デビューして1日目の舞妓さんも、芸歴50年の芸妓さんも、お座敷に呼ぶ時間当たりの単価は一緒なのです。こうして同一労働同一賃金が実現しているメリットのひとつは、評価基準が統一されるということでしょう。花代に見合った仕事をしたかどうか。お茶屋毎に異なった評価が行われるということがありませんから、評価する側にとっても、される側にとっても明確でわかりやすいですね。
そして、一人ひとりの芸舞妓さんが貰った花代については、置屋さん、お茶屋さんそれぞれが、花街毎にある「見番」(花街の管理事務所のような機関)に届ける仕組みになっています。そこでつき合わせが行われて、一人一人の一年間の実績の順位が集計されます。
その順位は、お正月に行われる、各花街の学校の始業式で発表になります。その花街にいる芸舞妓さん全員が、花代というひとつの基準で、ランク付けされるのです。
よくそう聞かれますが、必ずしもそうではないようです。この順位は一般には公表されることはないので、関係者の方から聞いた話ですが、長年経験を積んだ地方(じかた)の芸妓さんが上位に顔を出すことも多いとか。舞妓から芸妓になると、芸に対する周囲の目が非常に厳しくなります。しかも、インディペンデントコントラクターとして生き抜いていくためには、みんな必死に芸を磨いているはずです。
このように、明確なルールの下での評価システムが成立していることが、京都の芸舞妓さんたちの質を保っていると言えるでしょう。
最近の舞妓さんの「採用」では、「インターンシップ」を取り入れています。夏休みに1週間とか2週間、実際の生活を体験してもらうのです。
いったん置屋さんが決まってしまったら、後から「向こうの置屋さんの方が合うから変わりたい」ということは許されません。また、最近は個人主義的価値観が強いですから、昔ながらの人間関係にどうしても馴染めない若者も少なくありません。途中で辞められたときの置屋さんへのダメージは大きいですし、本人の人生を左右することでもあります。花街の生活を、イメージではなく実体験を通じて理解してからこの世界に入ってきてもらうための仕組みとして、活用されています。
また、京都にくる修学旅行生たちが泊っている旅館に舞妓さんたちを派遣して、踊りの鑑賞の後、質疑応答を受けて、記念写真を撮るといったサービスも行われています。最初は抵抗もあったようですが、将来のお客様や舞妓さん希望者の裾野を広げることにもなるということでスタートしました。今では、修学旅行は観光のオフシーズンにやってくるので、ビジネスとしてのバランスもいい、ということで定着しているようです。伝統を守ると同時に、こうした新しい挑戦を続けているのも、京都花街の強みではないかと思っています。
芸舞妓さんのキャリアも選択肢が広がっています。通常は、一生花街で芸妓として暮らすことを前提に、「自前さん芸妓さん」になって数年経ったところで、立方と呼ばれる日本舞踊専門になるのか、地方と言われる三味線や唄を専門にするのかを選択します。
ただ、最近では、一生芸妓で通す以外の選択をする人も増えているようです。花街に残ってお茶屋や置屋の経営者を目指す人もいますし、地元に帰って京風割烹を開いているような人もいます。いずれにしても、彼女たちはおもてなしの基礎がしっかりとできているから、応用力があるのです。「京都ブランド」ですね。それを支えているのが、教育制度であり、明快な評価制度であると言えるでしょう。
今回は、「人事」に関係しそうな部分を中心にピックアップしてお話しましたが、この他にも、350年間伝統を守り続けることができている理由がいくつもあります。皆さんが身を置いているビジネスの世界とは、一見まったく異なるように思うかもしれませんが、実は経営や人材マネジメントへのヒントがたくさんあると感じています。外国に学ぶことも大事かもしれませんが、身近にある日本の伝統からも学んでみてはいかがでしょうか。
取材・文 大島由起子(当研究室管理人) /取材協力: 楠田祐 (戦略的人材マネジメント研究所)
(2010年5月)
佐藤 博樹 氏「第29回 「ダイバーシティ経営」は、現代の適材適所の実現手段。その推進が強く求められている」
中島 宏 氏「第28回 人事トップでの経験を活かした事業経営で、自動運転タクシーの実現を目指す」
吉本 明加 氏「第27回 ダイバ―シティ実現には皆が納得することが重要。業界全体で解決するという視点を持つ。」
富永 由加里 氏「第26回 昇進すれば部下を幸せにできる 階段を上がる毎に見える景色は変わった」
吉川 剛史 氏「第25回 日本企業が「ローコンテクスト」の世界で成功していくために」
内海 房子 氏「第24回 社長が「我が事」と捉えている企業が、女性活用に成功している」
門脇 英晴 氏「第23回 世界観、歴史観を持って、多様なアジア市場で失敗・成功を体験してほしい」
リチャード・バイサウス氏「第22回 グローバル化の問題は、日本だけが直面しているわけではない」
桐原 保法 氏「第21回 マイノリティをどれだけ大事に扱えるかが、
イノベーションを起こし続けることができるか否かの鍵を握る」
西岡 由美 氏「第20回 高齢者対策はチャンス。高齢者活用のノウハウを人材の多様性に活かす。」
原 譲二 氏「第19回 コンセプチュアルに素晴らしくても現場が動かなければ意味がない。オリジナリティを持つことが重要」
中田 研一郎 氏「第18回 「多様性・異質性」を取り込みながら、世界に通用する普遍的な人事制度を」
脇坂 明 教授(博士)「第17回 企業の「ファミリーフレンドリー」度は、経営成功のカギを握る」
島貫 智行 氏「第16回 「正規と非正規の境界」に注目して見えてきた人材マネジメントの現状と今後」
Bryan Sherman(ブライアン・シャーマン)氏「第15回 これからの企業に「非グローバル人材」はいない。共通点に注目して現地を巻き込む」
伊藤 守 氏「第14回 ビジネストップはアスリートと同じ。コーチをつけずにアスリートは勝てるのか? (後半)」
伊藤 守 氏「第14回 ビジネストップはアスリートと同じ。コーチをつけずにアスリートは勝てるのか? (前半)」
淺羽 茂 教授「第13回 ファミリービジネス(所有と経営の一致)の「長期的」「継続性」「我慢強い」面から学ぶことがあるはずです。」
大滝 令嗣 教授「第12回 「グローバルビジネスリーダー」をスピード感をもって育てることがグローバル化成功の鍵」
西尾 久美子 准教授「第11回 舞妓さん育成に学ぶ 〜シビアな相互チェックと明快な評価制度の下での人材育成〜」
内田 恭彦 教授「第10回 次世代幹部候補育成のヒント 終身雇用にも異動にも、経済的な合理性がある」
坂爪 洋美 教授「第9回 立派な支援制度が揃っているのに、「結局は使えないよね」と思われていないでしょうか?」
西村 孝史 准教授「第8回 ソーシャルキャピタルは、従業員や組織にとって有効な概念として活用できると考えます」
池上 重輔 准教授「第7回 「戦略」と「人事・組織」のギャップが大きい企業は多い。人事も是非「戦略」の理解を。」
中島 豊 教授「第6回 ビジネススクールで学ぶことの本質は、ビジネスや仕事の「型」を学ぶことだと思います。」
今野 浩一郎 教授「第5回 「文系学生が勉強しない」「学生の理系離れが進んでいる」のには、企業にも責任がある」
中原 淳准 教授「第4回 他人に一方向的に理念を浸透されたいとは願う人はいない。いい意味での「あいまいさ」が必要。」
佐藤 博樹 教授「第3回 制度で競うな! 人事は「ワークライフ・バランス」など知らなくてもよい。」