HR Professionals:人事担当者インタビュー
第3回 価値観や立場の違いを受け入れ力に変えていくには− ブラサー工業の人材グローバル化の取り組みに学ぶ
ブラザー工業株式会社 人事部 企画グループ チーム・マネジャー 新井重一氏
海外売り上げが7割を超え、全従業員に占める日本人の割合は3割を切るブラザー工業。今回はその海外人事戦略に関わられている新井氏に、人の「グローバル化」を進めるにあたっての苦労、落とし穴、その乗り超え方などについて、具体的な事例を交えながらお話いただきました。
新井重一氏 プロフィール
ブラザー工業に入社して9年間採用と教育を担当。その後関連会社に出向し、人事制度、教育、採用の見直しや改革、店舗人事など人事業務全般に6年間携わる。ブラザー工業に戻った後、教育制度、次世代リーダー育成制度など同社の人のグローバル化推進役として海外人事に関わる業務を手がける。2012年3月からはマレーシアの製造拠点に赴任、人事・財務部門の責任者を務める。
海外売上比率76%、日本人比率30%以下。「海外進出」は1980年代から
― まず、御社の概要について、簡単に教えていただけますか?
弊社は1908年にミシンの販売・修理の会社としてスタートしました。当時、ミシンは100%輸入産業でしたので、
創業の精神として「輸入産業を輸出産業にしていく」というものがありました。そして創業104年目を迎えた今、海外売上比率は約76%(2010年度)。
グループの全従業員に占める日本人の割合は30%以下となっています。
従業員の多い地域は、圧倒的に生産拠点を置いているアジアです。特
に中国人、ベトナム人が占める割合が高くなっています。欧州・米州は大型量販店やディーラーに販売する販売拠点が中心ですので人数はアジアほど多くありま
せん。日本人従業員の半分以上は技術開発者です。つまり「日本で開発して、アジアを中心とした海外で生産し、世界に売る」というのが弊社の構造と言えるで
しょう。
事業構成を見ると、プリンターや複合機、ファックス、電子文具、タイプライターなどを扱うプリンティング・アンド・ソリューション事業が全体の約7割を占めています。創業期の中心だったミシン事業は工業用・家庭用を合わせても10%に満たない状況です。
― グローバル化が本格的に始まったのはいつごろのことだったのでしょうか?
海外進出という意味では、1954年には既に販売拠点をアメリカに展開し、60年以降には欧州の各国に展開していま
した。また、製造においては1978年に、台湾の高雄に家庭用ミシンの工場を設立しています。ただ、本格的に「グローバル化」を意識し始めたのは1980
年代後半に入ってからです。80年代半ばにはミシンやタイプライターの市場が成熟期を迎えました。そこで新規事業の育成に乗り出しましたが、日本国内の
ニーズと海外拠点のニーズが必ずしも一致しなくなったことなどから、業績が低迷し始めました。そこに来て円高が進み、根本的に事業の在り方を見直す必要に
迫られたのです。そこで掲げられたのが、「グループ・グローバル経営の強化」でした。当時の社長の安井(義博氏)は1998年に、「グローバル・グルー
プ・グロースの3G」という言葉を使って、ビジネスが指す方向を示しました。
具体的には、ブラザー工業が直接出資している国内外の販売会社を100%子会社にし、それまで各社の社長が自由に経営していたものをグループとして統一。また、事業の選択と集中を行い、多くの生産拠点を海外に移転しました。
そして1999年に「ブラザーグループ グローバル憲章(以下、グローバル憲章)」を制定します。これが「グローバル」が本格的に意識されるようになったスタートだと思います。
グローバル憲章発表時には、その内容を持ち運べるかたちに印刷して従業員に配布しました。しかし、当時は会社がとても厳しい時期で、今振り返ってみると、生き残りのために必要だということは理解されましたが、憲章が持つ本質的な意識の浸透は進まなかったように思います。
本質的な「グローバル化」が進んだのはCSR推進部主導で2008年から
その後、2001年から事業は好転。2008年には創業100周年を迎えることもあり、改めて、「グローバル憲章」の浸透度合を調査することにな
りました。海外を含めたグループ会社の経営者全員にアンケートを取ったのですが、彼らの認識として、「『グローバル憲章』を行動の規範にしている従業員は
数パーセントしかいない」というショッキングな結果が出てしまいました。そこでまず憲章の文言を見直すことになりました。そのうえで海外子会社各社に、自
国の言葉でニュアンスまでわかりやすく伝わるように翻訳するよう依頼したのです。翻訳作業を外部に出してしまうことは簡単でしたが、各国の従業員が自分た
ちのこととして捉えるためには、自前で考えることが重要だと考えたからです。そして「改定版 グローバル憲章」は2008年に26言語で再スタートをきり
ました。
― その時も、印刷をして皆に配布されたのですか?
は
い、ただその時はただ配布するだけではなく、教育に徹底的に力を入れました。ポイントのひとつは、教育を経営トップからスタートしたことです。経営トップ
を全員集めて、まずジョンソン&ジョンソンでクレドの浸透を担当されていた方に講演していただきました。その後、グループに分かれてもらい、「何故このグ
ローバル憲章が必要なのか」「自分にとってどんなメリットがあるのか」「従業員にとってはどんなメリットがあるのか」「自分はこれに対して何をしていくの
か」といったことをディスカッションしてもらいました。最後には決意表明してもらい、その実行に対するコミットメントまで取りました。
これを皮切りに、部門長、マネジャー、中堅社員、新入社員まで、全員に対して同様のグループディスカッションを実施しました。もちろん、日本国内だけではなく、海外子会社でもです。
ま
た、一時的な盛り上がりで終わらないように、各職場にグローバル憲章の浸透リーダーを置いて継続的に浸透活動を行ってもらっています。それに加えて、社内
のWebサイトで良い取り組みや事例研究を紹介しています。マネジャー以上は毎年全員、憲章に対するコミットメントを宣言しているのですが、その内容と結
果まで、そのWebサイトでオープンにしています。こうした活動を実施し続けることで、今ではかなりグローバル憲章が職場に浸透していると思います。
― これは、人事部主導で行われたのですか?
私は人事部メンバーとして2008年の浸透活動に参加しましたが、主幹は当時、グループのCSR活動を推進する役割を担う部門であったCSR推進
部でした。CSR推進部が主幹である意味は、グロ―バル憲章に基づく弊社の活動の影響は社内に留まるものではない、社員を含めたすべてのステークホルダー
への責任を伴うという認識だと思います。実際に憲章の冊子はお客様にもお渡ししています。「私たちはこういう会社です」ときちっと開示することで信頼して
いただくことができるからです。こうした例に代表されるよう、人事部が各部門と連携した取り組みは、今後もさらに大切になってくると思います。
「トレーニー制度」:人事の役割は資金面の支援とクオリティコントロール
― 非常にわかりやすいですね。その状態に向けて今、人事部として実行されていることについて具体的に教えていただけますか?
ひとつには、「トレーニー制度」があります。1990年代くらいまでは、海外の拠点をゼロから立ち上げるために、経験のない若い人でもどんどん外に出て
いって修羅場をくぐることができました。しかし、ここ10年は海外進出も落ち着いてきて、毎年入社してくる若手社員に、そのような経験を積む機会はほとん
どありません。そこで、意図的に修羅場体験ができる機会を提供することが必要なのではないか、と考えられたのが「トレーニー制度」です。当初は日本人を中
心に考えていたのですが、実際に運用し始めてみると海外子会社の中核となる社員を育成するのに大変適した仕組みだということがわかってきました。
― 具体的にはどのような制度なのですか?
「トレーニー制度」は大きく2つに分かれています。ひとつは国内外の大学院や外部機関への留学。こちらは入社5年目以上上の社員が対象です。もうひとつ
は、3ヶ月から2年程度、海外子会社やグル―プ会社に経験派遣をする、というものです。こちらの対象者は日本人の場合は一通りの仕事を経験した20代の若
手を中心に、海外従業員の場合は現地からの推薦です。
経験派遣を導入当初から積極的に活用しているのが日本の法務部門です。法務部門は中国やアメリカ、イギリスなど、日本国以外の法律がわかる法務人材を育成するために、若い人材を海外に送り込んでいます。
海
外人材の育成という意味では、製造部門がこの制度を有効に活用しています。例えば、海外で製造するにあたっては部品品質が大きな鍵を握っています。ですか
ら製造部品を現地で調達する部署がそのことを理解していることが非常に重要となります。そこで、調達に関わる現地の人材を日本に呼び、製品品質の重要性を
実感してもらい、更には日本の関連部署の直接的な人脈も構築して本国に戻ってもらうのです。
2008年にトレーニー制度をスタートさせた
ときには、日本から海外への経験派遣が法務からの1名のみで、海外からの受け入れは0でしたが、2009年には海外から10名、2011年には23名とど
んどん増えています。2012年にはおそらく受け入れが30名を越えてくると思います。
ここまで一気に加速したのは、製造拠点だけでなく、中国に開発拠点ができたことが大きいと思います。もともと開発はすべて日本で行っていましたから、開発に関して勉強するなら日本に来てしまうのが一番です。そのためにトレーニー制度は大変便利な仕組みです。
これまでこの制度を利用した社員で辞めた者はひとりもいませんし、最近では日本で学んだ現地の社員の中からリーダーになる人も出てきています。今後もうまく活用していきたい制度です。
― 他社の人事の方と話をしていると、現地の誰にそうした制度を活用させるのか、情報が少なくて人選が難しいという話も耳にしますが、御社ではどのような選抜方法を取られているのですか?
実は、経験派遣対象者の選抜に人事は一切タッチしていません。誰をどの部門にどれだけの期間派遣するかは、部門同士でネゴシエーションしてもらいます。
我々がジャッジするのは、本当に必要な派遣か、目的が適切か、それによって成長が望めるか、といった点だけです。もちろん、経験派遣中のレポートの提出を
義務化したり、修了後の成果報告会を開催するなど十分に成果が出るためのサポートはしています。つまり、我々人事の役割は、資金面のバックアップとクオリ
ティコントロールの二点になります。
このような仕組みにしている理由は、人事が一般的な研修のように経験派遣対象者を決めてしまうと、部
門内でのキャリアプランの流れを分断してしまう危険性があるからです。部門に決定権を渡すことで、披派遣者への期待は実際のビジネスに沿った具体的なもの
になりますし、戻ってきたあとの役割も明確に用意されることになります。
日本人上司を通してだけの情報提供では、現地を俯瞰してみる人材は育ちにくい
― 当事者たちが積極的に関わることで実効を上げているということですね。では、現地での次世代リーダー育成についてはいかがですか?
「次世代リーダー育成」の実質のスタートとなったのはUK工場の社長候補の育成でした。当時、20数年間UKの工場で働いていた人材がいました。知
識が豊富なだけではなく、人物的にも尊敬でき他の社員からの信頼も厚かったので、明らかに次期社長候補だったのですが、いかんせん全社戦略を自ら立てるこ
とができない。そこで、日本の人事部主導で育成できないか、という話になりました。
まず初めに行ったことは、彼を日本に呼んで、日本の関
連部部署のキーマンと直接話す機会を提供し、グループ全体の戦略をきっちりと理解してもらうことでした。現地の次世代リーダー候補者であっても、情報は現
地の日本人上司を通じて降りてくるので、必ずしも本社の認識がそのまま伝わっていないケースがあることがわかったからです。
本社の方針を
しっかりと理解したうえで、工場の中期ビジョンを計画してもらいました。そこで気がついたのは、普通に現地で働いていると、ひとつ上の立ち位置から自分た
ちの組織を俯瞰して考える機会はないのだ、ということでした。彼は自分がUK工場の戦略をグループ戦略の一環として考えるという認識が薄かったようです。
そのことを自覚してもらってから、一気に視界が広がったようでした。彼は今、UK工場のトップとして活躍しています。
「目的がわからない」:想像以上に根深かった現地の不信感
次に取り組んだのが中国・華南地区の幹部候補育成です。華南は、製造拠点として現在のブラザーのビジネス展開の中で重要な位置を占めています。社長候補を出すには少し時期が早く、まず部門長と部長クラスの候補者の育成を手がけました。
2010
年、6人の部門長候補を選抜し、実践を通じて学んでもらうアクションラーニングを実施しました。最初にぶつかった壁は、彼らに今回の目的を理解してもらう
ことでした。最初の1週間は、泊まり込みで研修をしたのですが、目的の説明だけに時間を費やしたようなものです。その後、現場に戻っての研修期間に入り、
2週間に1回はテレビ会議で進捗状況を確認しながら、3カ月後、中間報告会の場を迎えました。
そこで候補者6人が異口同音に口にしたの
は・・・「やはり、まだ目的がわからない」「何が求められているか理解できない」ということだったのです。ショックですよね。泊まり込み研修であれだけ説
明したはずなのに、中間報告の場なのに、また振り出しに戻ってしまった、あの時の何ともいえない堅い雰囲気は今でも思い出すことができます。そこで腹を
割って話を聞くと、以前にも何回か「君たちはリーダーだから」ということを言われたことがあったようなのですが、でも結局何をすればいいのかよく分からな
かった。だから今度も結局同じことなんじゃないかという不信感が根強く残っていたことがわかりました。
こちらは双方向のコミュニケーショ
ンをしてきたと思っていても、向こうから見ると一方的な情報伝達になってしまっていたのです。中間報告会は、そこあたりの問題が一気に噴出するかたちでし
た。また、日本の中では「そこまで説明しなくてもわかるだろう」と思うことでも、最初はやりすぎだと思うくらい詳細まで説明する必要があるということも痛
感しました。
そこで、改めて現地の日本人上司をしっかりと巻き込むようにしました。単に研修の主旨などを伝えるだけではなく、候補者たち
が具体的にどのような課題を与えられていて、どんな成果を求められているかまで説明をしました。また、現地から自分の後継者を出すことは重要な業務のひと
つだということを再認識してもらいました。そのうえで定期的に話をするなど、きめ細かいフォローをお願いしたのです。そうすることで研修の後半は軌道に乗
せることができ、現在、現地の中核メンバーとして活躍してくれています。
現在はこうした経験や教訓を生かして、華南だけでなく、ベトナムでの次世代リーダーの育成に取り組んでいるところです。
― 次世代リーダーを現地で育成してもすぐに辞められてしまうと困る、と心配する声も聞きます。
課長クラス候補に挙がってくるような人材はあまり辞めないですね。中国の経済は急速に成長しています。特に華南では車を持っていることはもはや珍しくな
く、家を買って生活している人も増えています。ですから、単にお金のためだけに会社を変わるというよりも、その会社でのポジションが上がるのかどうかを気
にする傾向が強くなっているように思います。そうしたチャンスが明確になっていれば、そう簡単には辞めないと思います。
最初に華南で次世
代リーダー育成した時には、彼らがその点について会社を信用しきれていなかった、ということでしょう。それが「目的がわからないのに課題ばかり与えられ
る」という不信感につながっていたのだと思います。ただ、最初の研修参加者から実際に部門長が出ていますから、そうした問題は解決していくと思います。
海外開発拠点のスピーディーな立ち上がりのための「グローバル開発スタッフ」の採用
― 今までのお話から、現地法人の人材育成では、トレーニー制度と次世代リーダー育成の両輪が回っていることがわかりました。「採用」については何か特別な取り組みをされているのでしょうか?
はい、現在、文部科学省の定義する「高度外国人」の採用に取り組んでいます。海外の開発拠点を、スピード感をもって成長させていくためには、優秀な人材の
確保が必須です。しかし、拠点を作ってすぐに即戦力になる人材を採用し続けることができる保証はありません。そこで2008年から「グローバル開発スタッ
フ」の採用をスタートさせました。海外で採用した開発者に5年間日本で勉強してもらい、現地の開発リーダーとして戻ってもらう予定になっています。これま
で退職した社員も出ず、順調に成長してくれています。
― 日本企業は昇進に天井があると思われているから海外でいい人材が採用しにくい、と聞いたことがあります。将来は、海外拠点のトップは現地の社員で、と考えられているのでしょうか?
今のところは、「必ずトップは現地社員から」といった公式のコミットメントはしていません。無論、最終的には日本人社員を送らなくても海外拠点がうまく回
るのが理想ですが、そのことが目的化してしまうと、無理が出てきてしまう可能性があります。今はグループとしての一貫性を保ちながら、どうやってそれを実
現するのかを模索しているところです。ただ、社長が現地の社員たちと話すときには、「自分の代わりになれるくらい頑張ってくれ」といつも言っていますし、
実際に現地採用の社員から現地幹部になる人物が出てきていますから、公式のコミットメントがないことが大きなネックになっているとは感じていません。
価値観の違いを受け入れられるコミュニケーション力が求められている
― 今までは現地社員の育成や採用についてお伺いしてきましたが、日本人社員のグローバル化についてはどうお考えでしょうか?
その点は現在の社長も問題意識を持っているところです。新入社員の研修を海外でやるかという話も上がりました。しかし、何かを学ぶには実務と結びついてい
ることが大事だと思っていますので、先ほどお話したトレーニー制度を活用して、30歳までに実務に関係のあるかたちで海外経験ができるような仕組みを作っ
ていこうと考えています。また、トレーニー制度を使って海外社員が日本にやってきていますから、そこでの交流を積極的に促していくことも大事だと思ってい
ます。
― 日本人社員の英語教育についてはいかがでしょう?
今は会社全体として制度を作っていませんが、研修やTOEICなどを活用して、誰もがある程度の英語力を持っている状態にしていく必要があると思っていま
す。ただ、語学力ばかりが独り歩きをしても仕方ありません。語学の問題以前に、価値観の違いを受け入れられるといった基本的なコミュニケーション能力を強
化していくことが重要です。それを鍛えるには、やはり価値観の異なる人たちと実際の仕事をしていくことが一番。そういう意味でも、トレーニー制度の活用を
進めていきたいですね。
― 3月からマレーシアということですね。また現地でのご経験を伺えればと思っております。本日はどうもありがとうございました。
取材・文 大島由起子(当研究室管理人) /取材協力: 楠田祐 (戦略的人材マネジメント研究所)
(2012年4月)