2019 / 02 / 05
『こんな夜更けにバナナかよ』の作者による真摯な問いかけ
『なぜ人と人は支え合うのか「障害」から考える』
渡辺一史 著・筑摩書房 950円
- 評者
大島由起子 インフォテクノスコンサルティング株式会社
Rosic人材・組織ソリューション開発室/
人材・組織システム研究室 管理者
概要
2018年末に公開された、大泉洋主演の映画、『こんな夜更けにバナナかよ』の著者の作品です。
2003年に出版された『こんな夜更けにバナナかよ』は、筋ジストロフィー患者である鹿野靖明氏が、家族の元を離れ、自らボランティアを集めて彼らをマネジメントし、自立した生活をしていく様子を描いたノンフィクション作品。
読み始めた時には、2016年に相模原で起きた知的障害者施設襲撃の悲劇をきっかけに書かれた本だろうと思っていました。しかし実は、執筆開始から出版まで5年かかっているとのこと。つまり、渡辺氏は、その以前から本書に取り組んでいたことになります。
筋ジストロフィーという病気は、徐々に体中の筋肉が委縮し動かなくなるという難病。進行していくと、多くの合併症を発症し、内臓を支える筋肉さえも徐々に動かなくなるという過酷な病気です。渡辺氏はフリーライターとして、筋ジストロフィー患者である鹿野氏の生活を取材し、鹿野氏とボランティアの方々のありようを、『こんな夜更けにバナナかよ』という一冊にまとめました。この本は、大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞をW受賞しています。
タイトルは、鹿野氏が、真夜中にボランティアを起こして、「バナナが食べたい」といって、食べさせてもらった、というエピソードから来ています。そこに込められているのは、「障害者は謙虚で、頑張り屋で、我儘を言わないのがあるべき姿である」といった固定観念を打ち砕きたい、という思いであったように感じます。
本書は、そうした渡辺氏が、「障害者が社会に生きている意味はなにか?」を自らに問い、キレイごとではない答えを出そうと、真摯に取り組んでいる一冊です。
「自分が書いたものは現実を描けていないのではないか」と、失望と停滞の中にいた最中に、かの事件は起こりました。そこで起こったことは、悩みを更に深くする側面もあったものの、改めて「障害者が社会に生きている意味は何か」にしっかりと向き合うべき意味は大きいと、執筆継続の後押しになったと言います。
また折しも、『こんな夜更けにバナナかよ』の映画化の話が持ち上がり、この作品が他の人たちの手で独り歩きしていくことになったとき、自らの考えを改めて示す必要があると強く感じたことも、書ききる力になったそうです。そして、事件から2年後の2018年に、渡辺氏の一つの答え(もしくは大きな問い)として、一冊の本として世の中に出されました。
目次
はじめに
第一章 障害者は本当にいなくなったほうがいいか
第二章 支え合うことのリアリティ
第三章 「障害者が生きやすい社会」は誰のトクか
第四章 「障害」と「障がい」 - 表記問題の本質
第五章 なぜ人と人は支え合うのか
あとがき
お勧めのポイント
本書を読んでいる間中、ずっと心がざわざわしていました。著者の真摯さや正しさに、自分の奥底に押しやってきた価値観や固定観念があぶり出されていくのを感じ続けていたからでしょう。また、こうしたことを「綺麗事だ」「絵空事だ」と突っぱねるだろう知人たちの顔が浮かび、おそらく彼らに反論しきれないだろう自分の弱さを突きつけられているという感覚もありました。
ただ、そうした、どうしようもなく「普通」の人が、居心地の悪さを隠してしまわずに、この問題から逃げないで考え続けようと背中を押される話が、数多く提示されていました。
代表されるのは、「障害」という表記についての「揺れ」です。ビジネスの世界では、「害」というネガティブな意味のある漢字を避けて、「障がい」と書くことが多くなっています。そうすれば、「私はちゃんと考えております」と自己主張できるからです。しかし著者は、一貫して「障害」という漢字を使い続けます。それは、「障害」という表記について、「障害者」と呼ばれる人たちの中でも、「障害」の方が良い、「障がい」と表記することに違和感を覚える、という意見が決して少なくないからです。
「障害」とは何かと考える際には、「医学モデル」と「社会モデル」があるといいます。前者は、「障害」は病気やケガなどによって生じる医学的・生物学的な特質であると考えるもの。後者は、「障害」をもたらしているのは、医学的・生物学的な特質ではなく、それを考慮することなく営まれている社会の側である、と考えるものです。
それぞれの見方から「障害」を捉えると、「医療モデル」の立場では、人を表現する言葉からネガティブな「害」という言葉をなくしたいと思うでしょう。一方で、「社会モデル」の立場をとれば、「害」という言葉を消してしまうと、社会が生み出している「障害」への批判を薄めてしまうことになると考えるでしょう。こうした立場を超えて、何でも口当たりの良いものにすることで、問題の本質を見えにくいものにしてしまうことを懸念し、居心地の悪さを敢えて残すべきだという声もあると言います。
このように、「障害」について、真剣に考えている人たちの間でもいろいろな考え方や感じ方があり、どれがたったひとつの正解とはいえない部分が広い範囲で残っているのです。つまり、逆に、すっぱりと「わかりました!」と疑問をひとつも持たずに言い切ってしまうことの方が、危険である、と感じます。
その他、「障害者と健常者も同じ人間」などという"キレイゴト"に逃げるのはなく、"障害者"と"健常者"という"違う人間"が存在することを積極的に問うべきではないか、という問題提起。現代社会では本当に、"健常者"と"障害者"をきっぱりと線引きできるのか、自分が健常者だと思っていた自分も、実は"障害者"かもしれないのではないか、という視点の提供など、考えさせられる話が詰まっています。
後半で、海老原博美さんという、人工呼吸器で生命を維持している女性の話が出てきます。というと弱々しい人のイメージを浮かべるかもしれませんが、まったく逆。自ら、障害者支援が整っていない街に敢えて単独で引っ越し、その地で自立生活支援センターを立ち上げてしまう、というバイタリティ溢れる人物です。
彼女は、屋久島の縄文杉を例に上げて、「人の価値」の本質について考えます。確かに数千年も枯れずに生きてきたことは凄いけれど、杉がアドバイスをしてくれたり、励ましたりしてくれるわけではない。でも、多くの人が縄文杉の前で、勝手にメッセージを受け取って、勇気をもらって帰っていく。つまり、価値を決めているのは人間側であって、杉自体に絶対的な価値があるわけではない、と指摘するのです。
障害者に価値があるか否かといった議論になることがありますが、海老原さんは縄文杉の例をあげて、「あるのは、『価値のある人間・ない人間』という区別ではなく、『価値を見いだせる能力のある人間・ない人間』という区別」と、我々に伝えます。
本書を読んで、「物事には1つの決まった『正解』があって、それは正解ゆえに変わることがなく、そこに最短でたどり着くことが最善である』という一種の信仰を、疑ってみよう、と思いました。それは、本書を読みなが感じた居心地の悪さを受け入れ続けてみるという決心ですが、価値はあると感じています。
(2019年2月5日)