• TOP
  • BOOKS
  • 小さな世界で、誰からも後ろ指をさされたり笑われたりしないような正しさの中で、安心してしまわないために

小さな世界で、誰からも後ろ指をさされたり笑われたりしないような正しさの中で、安心してしまわないために

思考地図.jpg

『脳と森から学ぶ日本の未来 "共生進化"を考える』
稲本正 著
WAVE出版 3520円

- 評者

大島由起子 インフォテクノスコンサルティング株式会社
Rosic人材・組織ソリューション開発室/
人材・組織システム研究室 管理者














概要

著者である稲本氏は、30年以上前に、飛騨高山に移り住み、国内の木を使ってモノづくりを続ける傍ら、植林活動を行い、日本全国の森林を歩き、更には世界の森を訪ねてきました。そうした活動をベースとして、地球環境における森林生態系の重要性を発言し続け、それに関わる様々なプロジェクトを立ち上げ、牽引してきました。

こうした稲本氏は、飛騨高山に移住を決心する直前まで、大学の物理学研究室で実験助手をしていたという人物でもあります。更に氏を興味深くしているのは、小説家を目指していた典型的な"文科系人間"だったにもかかわらず、国木田独歩の『空知川の岸辺』という文章(物理学にはまったく関係のない、国木田独歩が土地の選定のために北海道を訪れた際の紀行文)に出会ったことで、大学で物理学を学ぼうと思い、急角度の方向転換をしているという点にもあります。

本書は、複雑多様なバックグラウンドを持つ著者が、コロナ禍を越えた日本の未来を包括的に展望し、より良い未来にしていくための提案をするものです。

とはいえ、話は、カズオ・イシグロ氏との出会いの話から始まり、脳・細菌・ウィルス、生物史、日本史、人類史、哲学、宇宙論、科学史、AIなど、縦横無尽に思いもよらない流れで展開していきます。著者自身も"おわりに"で、「あまりに多岐に渡って、一時は一体どうなることかと不安になられた方もいたのでは?」と書いているほどです。

しかし、読み進めるうちに、自分がどれほど単視眼的、短期的、限られた空間のなかでモノをとらえていたかに自然と気づかされていきます。

稲本氏の独特な世界観に抵抗を感じる方もいるかもしれませんが、一度自分のモノの見方から大きく離れて、自由に発想を広げてみたいと思ったときに、手に取ってみていただきたい一冊になっています。

<目次>

はじめに
第1章 私たち人類の現在を問い直そう
第2章 生き延びた生物からパラダイムシフトを学ぶ
第3章 日本を新しい視点で見つめる
第4章 日本の近代化を超えた自立を
第5章 現代科学が切り開く新しい常識
第6章 脳と森から学ぶ日本の未来
おわりに

お勧めのポイント

"はじめに"で、ノーベル物理学賞受賞者であり、量子力学の基本方程式を提唱した原子物理学者であるシュレーディンガーの言葉が引用されています。

「ただひとりの人間の頭脳が、学問全体の中のひとつの小さな専門領域以上のものを十分に支配することは、ほとんど不可能に近くなってしまったのです。・・・・われわれの中の誰かが、諸々の事実や理論を総合する仕事に思い切って手をつけるより他には道がないと思います。たとえその事実や理論の若干については、又聞きで不完全にしか知らなくとも、また物笑いの種になる危険を冒しても、そうするより他に道はないと思うのです。」

稲本氏は、氏が尊敬してやまないヘンリー・D・ソロー(『森の生活』で有名。森林生態学者としての研究も高度だが評価されていない)について、多くの研究者が、ソローの人間像全体を理解する努力を放棄して(もしくは最初から考えずに)、あくまで「自分の」専門範囲にテーマを絞って、そこだけを切り取って研究していることに満足していること、その風潮が強くなっていることに危機感を露わにします。シュレーディンガーが言うように、総合的な理解は容易なことではなことから、" 物笑いの種になる危険"を覚悟して取り組む人が減っている証左だからです。

そのことは、学問の世界に限らず、私たちの生活でも起きていることに気がつかされました。小さな世界(自分ではその小ささにきがついていない)で、誰からも後ろ指をさされたり笑われたりしないような、小さな正しさの中で安心している、という状況です。もしくは、わかりやすい最大公約数的な正しさに、無批判にしがみついてしまう。

そうした世界から離れてみるためにはどうしたらいいのか。ひとつには、自分が無意識に使っているモノサシを疑ってみることが有効かもしれません。本書にはそのヒントが沢山詰まっています。その例として・・・

<時間の感覚について>
 産業革命以降の時間を200年とすると、縄文時代はその約65倍の長きにわたって続いた。
<大きさの感覚について>
 もし、ノミが人間の大きさになり、そのスケールの比率のまま跳躍力が上がると、東京都庁舎も楽に飛び越えられる。
<数の感覚について>
 人間は約37兆の細胞でできていて、細胞の一個一個には約1000兆の原子があると言われている。つなり、千兆の37兆倍の原子が、私やあなたの体の中で動いている。
<距離の感覚について>
 原子の構造を説明するとして、真ん中に原子核(陽子と中性子)があり、その周囲を電子が回っているというイラストをよく見かける。この絵は嘘である。もし原子核がピンポン玉ほどの大きさであるとしたら、原子核から電子は10km以上も遠いところを離れて回っている。山手線より大きい円(山手線はサツマイモ型だが)を電子は回っていることになる。
<進化の認識について>
 ホヤと人間は遺伝子的に半分くらい同じである。

などなど。稲本氏は数字が出てくるたびに、私たちが普段慣れているスケールと比較して、私たちの視点を揺らしにかかります。その他にも、知らなかったこと、漠然としか理解していなかったことが次々に現れ、知的好奇心をくすぐられることになるでしょう。

そして、地球単位の時間、宇宙の大きさ、人体の精密な複雑さを考えたら、自分の周りのごくごく小さな瞬間的な世界での本流や正解は、単なる選択肢の一つでしかないことに気がつかれされます。

「進化の大きな分岐点や歴史の大きな変革では、本流にいたグループではなく、そこから離れたグループから変革者が現れる。なぜなら、本流にいる人は『変える必要がない』からである。しかも、変革者や新しい進化の主役は、その生物のむしろ欠点だと思われていたところから始まることが多い。『肉鰭類』(注:シーラカンスはその仲間)が持つ「早く泳げないし、遠くにも泳げない」という欠点はある種致命的で、劣等生もよいところだ。ところがその『魚らしからぬタイプ』が『上陸』というとんでもない偉業を果たし、人類でもある私もあなたも生まれたのである。」

「葉が緑に見えることに、学ぶことがある」という、常人が思いつかない発想を持つ稲本氏は、変革者候補の一人なのかもしれません。

おそらく、意見の分かれることもあり得る、"おわりに"で示される稲本氏の提言も、オーソライズされた正解として扱う(全肯定するor否定する・拒否する)のではなく、あくまでひとつの材料として、つたなくても、不完全でも、最初は笑われても、まずは自分で総合的に考えてみること。その一歩を踏み出す勇気と材料をもらえる一冊です。

(2021年3月9日)

BOOKS TOP